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心励まされる先人の言葉集(音楽家)


音楽の座右銘   ロベルト・シューマン (吉田秀和訳)

 

 一番大切なことは、耳(聴音)をつくること。小さいときから、調性や音がわかるように努力すること。鐘、窓ガラス、郭公、ー何でもよい、どんな音符に当たる音をだしているか、しらべてみること。ー

 音階やその他の運指法は、もちろん熱心に練習しなければならない。しかし、世の中にはそれで万事が解決すると思って、大きくなるまで、毎日何時間も、機械的な練習をしている人が多い。けれど、それはちょうどABCをできるだけ早くいえるようになろうと思って、毎日苦労しているようなものだ。時間をもっと有効に使わなければいけない。

 いわゆる「無言鍵盤」というものができた。ちょっと試してみるといい。何にもならぬことが、よくわかる。唖から話は習えない。

 拍子を正しく守ってひくように。多くの名人の演奏をきいていると、酔っぱらいが歩いているようだ。そんなものを手本としないように。

 小さいときに和声学の基礎を勉強するように。

理論、ゲネラルバス、対位法等々といった言葉におじけないように。こうしたものは、使っていると、段々なれてしまう。

 ぽつんぽつんと気のないひき方をしないように。いつもいきいきとひき、曲を中途でやめないこと。

 ずるずる曳きずるのと、無闇にいそぐのとは、同じくらい大きな間違いだ。ー

 やさしい曲を上手に、きれいに、ひくよう努力すること。その方が、むずかしいものを平凡にひくよりましだ。ー

 いつも正しく調律された楽器を扱うこと。

 自分の手がけている曲は、ただ指でひけるばかりでなく、ピアノがなくても口でいえるようでなければならない。想像力を大いに強化して、曲の旋律ばかりでなく、それについている和声も、しっかり覚えこめるようにならなければいけない。

 たとえ声がよくなくても、楽器の助けをかりないで、譜面をみて歌えるようになること。ーそうすると、聴音がますます鋭敏になる。しかし、もし、よく響く声をもっていたら、天が与えた最も美しい贈物と考えて、さっそくそれを仕上げなさい。

 譜をみただけで、音楽がわかるようにならなければいけない。

 ひく時には、誰がきいていようと気にしないこと。

 いつも名人にきかせるような気持でひくように。初見の曲をひけといわれたら、まず終りまで眼を通すこと。

 一日の音楽の勉強を終えてつかれを感じたら、もうそれ以上、無理にひかないように。悦びもいきいきした気持ちもなしにひくくらいなら、むしろ休んでいる方がいい。ー

 大きくなったら、流行曲などひかないように。時間は貴重なものだ。今あるだけの良い曲を一通り知ろうと思っただけでも、百人分ぐらい生きなくてはならない。

 ビスケットやお菓子のような甘いものでは、子供を健全な大人に育てられない。精神の糧も肉体の糧と同じく、素朴で力強くなければならない。大家といわれるような人は、このことに充分気を配っていた。こうした栄養をとること。ー

 およそはでなばかりで内容のない売物は、時代と共に流れてしまう。技巧派、より高い目的に奉仕しているときだけ、価値がある。

 悪い作品をひろめてはいけない。反対に力のかぎり抑圧するよう、協力しなければいけない。ー

 悪い作品を演奏してはいけない。またほかに仕方のない事情がない限り、そんな曲を熱心にきいてはいけない。ー

 いわゆる華麗なひき方が、達者にこなせるようになろうと心がけないように。ある曲をひく時には、作曲家の考えていた印象をよび起こすよう努めなければいけない。それ以上をねらってはいけない。作家の意図を超えたものは、漫画と同じだ。

 立派な作家の曲をどこかを変えたり、削ったり、あるいはそれに流行の装飾をつけるようなことはいけないと、知りなさい。これは、芸術に対する最大の侮辱だ。

 勉強する曲を選ぶときは、いつも年長者に訊ねること。大変、時間の節約になる。

 だんだんでいいから、あらゆる重要な大家の重要な作品を、全部覚えて行かなくてはいけない。

 いわゆる大演奏家はよくやんやと喝采されるが、あれをみて、思いちがいしないように。みんなが、大衆の喝采より、芸術家の喝采を重んじるようだといいと思う。

 どんな流行も、結局流行遅れになる。年寄りになってもそれを続けていると、時代おくれとして、誰にも尊敬されなくなる。

 人の集ったところで、何度もひくことは、益よりも害が多い。人にみられるのはかまわないが、自分の内心に省みて、はずかしいような曲は、決してひかないように。

 しかし、他の人々とあわせて二重奏や三重奏等をする機会があったら、決してのがさないように。人とあわせると、演奏が流暢に、達者になる。歌を歌う人の伴奏もいつもするように。

 もしみんなが第一ヴァイオリンをひきたがったら、オーケストラはまとまらない。その持場持場にいる音楽家をすべて尊敬するように。

 自分の楽器を愛するのはいいが、それが唯一、最高のものと思うような愚かなことのないように。そのほかにも、同じくらい美しい楽器があることを考えなければいけない。その上合唱やオーケストラの中で、最高の音楽を表現する歌手というものがあることを考えるように。ー

 大きくなったら、名人よりはスコアと交際するように。

 よい大家、ことにヨハン・セバスチャン・バッハのフーガを熱心にひくように。「平均律クラヴィーア曲集」を毎日のパンとするように。そうすれば、今にきっとりっぱな音楽家になる。

 友だちの中でも、自分よりよく知っている人を選ぶように。

 音楽の勉強につかれたら、せっせと詩人の本をよんで休むように。野外へも、たびたび行くこと!

 男や女の歌手の話は、いろいろためになる。けれども、何もかもいわれる通りに信じてはいけない。

 山の彼方にも人が住んでいるのだ。謙遜であれ! 君は、まだ自分より前にほかの人が考えたり、みつけたりしたこと以外に、何一つみつけたこともなければ、考えたこともない。またもし何か新しいものがみつかったら、それを天の贈物と考えて、ほかの人にもわけなければいけない。

 いろいろな時代の傑作を熱心にきくことを土台にして、音楽の歴史を勉強すれば、うぬぼれと虚栄心が一番早く癒るだろう。

 チボーの「音芸術の純粋さについて」という本はいい音楽書だ。大きくなったら、何度も読みなさい。

 教会の側を通りすぎるとき、なかでオルゲルが鳴っていたらはいってきくように。もし幸にもオルゲルの椅子に坐れたら、小さな指でひいてごらん。そうして、この音楽の万能に感心するといいと思う。

 オルゲルをひく機会があったら逃さないように。タッチと演奏法に、粗雑な曖昧な点があると、覿面(てきめん)に報いが現われる。この点で、オルゲルほど良い楽器はない。

 合唱にはいって熱心に歌うように。ことに中声部を歌うように。そうすると、音楽的になる。

 それでは、音楽的とは何だろうか。両眼を譜面に心配そうにくっつけて、やっと曲をひきおわるというようでは、音楽的ではない。また(もし誰かが一度に譜を二頁めくった時)ぼんやりして、さきへ進めないようでも音楽的ではない。反対に新しい曲をみて、その先がどうなるか大体感じられるとか、前から知っている曲なら、隅から隅まで覚えているようならばーつまり指だけでなく、頭にも心にも音楽を持っているようならば、音楽的といえる。

 しかし、どうしたら音楽的になれるだろう。鋭敏な耳、早い把握力、この二つの一番肝心なものは、音楽に限らず、何事においても天からくるものだ。けれども、この自分のもっている素質を育て上げたり、高めたりすることは、できる。そのためには、隠者のように、一日中とじこもって、機械的な勉強をしていてもだめだ。反対に活溌な、多方面な音楽的な交際を結んだり、合唱やオーケストラにさかんに出入りしていると、音楽的になってくる。

 小さいときから、四つの主な人声の範囲を、はっきり知っておくといい。ことに合唱をよくきいて、どんな音程だと最高の力が発揮されるか、どこまで行くとうら声に変るか、よくしらべておくこと。

 民謡はどれでも、熱心にきくこと。民謡は美しい旋律の宝庫であって、さまざまの国民性をのぞく窓だ。ー

 小さいときから、昔の音部記号を練習しておくこと。さもないと、多くの昔の宝をむざむざと逃すことになる。

 小さいときから、いろんな楽器の音の性格に気をつけて、各楽器の特有の音色を耳に刻みつけておくこと。

 よい歌劇をきく機会をのがさないように。

 古いものを尊敬するように。しかし、新しい曲もまた暖かい心で接するように。知らない名だからといって、偏見をもたないように。

 初めてきいただけで曲を判断しないこと。最初気に入ったものが、かならずしも一番良いものとは限らない。大家は研究されたがっているのだ。非常に年をとってから初めてわかるものも、少なくない。

 作品を批判する場合には、専門の音楽に属するか、またはただの愛好者の慰みのために書かれたものかをよく区別すること。第一のものに対しては味方になり、第二のものには腹を立てないように。

 音楽好きの人たちは何かというと「旋律」という。もちろん旋律のない音楽なぞ、音楽ではない。しかし、その人々のいう旋律とは、何をさしているかよく考えてみるがいい。あの人たちはわかりやすい、調子のよいものでなければ、旋律だと思わない。しかし、旋律にはもっとちがった種類のものが会って、バッハ、モーツアルト、ベートーヴェンをあけてみると、そこには幾千といういろいろとちがった節がみつかる。貧弱な、どれもこれも同じような旋律、ことに近頃のイタリアのオペラの旋律など、早くおもしろがらなくなるように。ー

 ピアノをまさぐりながら、小さな旋律をまとめ上げるのも結構だが、ピアノがなくても自分の中から自然と旋律が湧いてきたら、もっとよろこんでいい。君の中に、一層深い音感が生きてきたのだ。ー 指は頭の望むものをやればいいので、それが反対になってはいけない。

 作曲をするようになったら、まず頭の中ですっかり作ってしまうこと。そうして、その曲がすっかりできるまで、楽器でひかないように。心から湧いてきた音楽なら、ほかの人がきいても、やはり同じようにうたれるだろう。

 もし、君が幸いにも活溌な幻想力を天から恵まれていたら、さぞ君もただ一人でピアノの前に釘づけになったように何時間も坐りこんで、和声の中に心の内を表現しようとするだろう。ふしぎな感じにさそわれて。魔の郷の奥へ奥へと引きこまれるような気がするだろう。そうして和声の国に通じていないだけに、こんな時こそ、若い日の最も幸福な時間なのだ。しかし、この才能におぼれないように用心しなければならない。これに誘われるままに動いていたら、力も時間も実体のない陰影のためにむだに使われてしまう。形式の支配、明確な構成力は、ただ紙の上にはっきりと書き表してゆく以外には得られない。だから、幻想にふけるよりも、せっせと書かなければいけない。

 小さいときから、指揮法を知っておくように。上手な指揮も、何度も見ること。一人でそっと指揮の真似をしてみたってかまわない。そうすると、頭がはっきりする。

 ほかの芸術や科学をみると共に、自分のまわりの生活をしっかり観察せよ。

 道徳の掟は、また芸術の掟でもある。

 勤勉と根気があれば、きっと上達する。

 銅貨の五六枚も出せば買える一ポンドの鉄から、何十万グロッシェンもする、何千という時計のばねができる。神から与えられた一ポンドの才能を、大切に利用すること。

 芸術では熱中というものがなかったら、何一ついいものが生れたためしがない。

 芸術は金持になるためにあるのではない。一生懸命にますます偉大な芸術家になりたまえ。ほかのことは、自然にやってくる。

 まず形式がすっかりわかって、はじめて精神もはっきりわかるのだ。

 恐らく、天才を完全に理解するものは、天才だけだろう。ー

 勉強に終りはない。

 

新しき道 ロベルト・シューマン(吉田秀和訳)

 

 十年ぶりで、この思いで深き領域に、もう一度足を入れることになった。十年といえば、私がこの雑誌の編集に捧げていた歳月とほぼ同じだ。この十年というもの、私は緊張しきった創作活動に日を送ってきたが、思わず興奮して筆をとろうとしたことも、一再ならずあったのだ。重要な新人も大勢現われた。新しい音楽の力のきざしもみられるようになった。その作品はまだ世間的に広く知られていないにしても、最近の、高い精進をつづけている多くの芸術家を見れば、その間の事情が証明される。私は考えた、こういう選ばれた人たちの道を熱心に追求してゆくと、どうしても、こんな前駆者の後から、今に時代の最高の表現を理想的に述べる使命をもった人、しかもだんだんと脱皮していって大家になってゆく人でなく、ちょうどクロニオンの頭から飛び出したときから完全に武装していたミネルヴァのような人が、忽然として、出現するだろう。また出現しなくてはならないはずだと。すると、果たして、彼はきた。嬰児の時から、優雅の女神と英雄に見守られてきた若者が。その名は、ヨハンネス・ブラームスといって、ハンブルグの生れで、そこで人知れず静かに創作していたが、幸いにも教師にその人を得、熱心にその蘊蓄(うんちく)を傾けてもらったおかげで、芸術の最も困難な作法を修めたすえ、さる高く尊敬されている有名な大家の紹介によって、先日私のところにきたのである。彼は誠に立派な風貌を持っていて、みるからに、これこそ召された人だと肯かせる人だった。ピアノに座ると、さっそくふしぎな国の扉を開き始めたが、私たちはいでてますます不思議な魔力の冴えに、すっかりひきずりこまれてしまった。彼の演奏ぶりは全く天才的で、悲しみと喜びの声を縦横に交錯させて、ピアノをオーケストラのようにひきこなした。曲はソナタ(むしろ変装した交響曲のような)やーーーその言葉を知らなくてもよくわかるような、しかも深い歌の旋律がすみずみまでしみこんでいる歌曲やーーー実に気持ちのよい形式をもち、デモーニッシュな性質もところどころ見られる二三のピアノ曲やーーーそれからヴァイオリンとピアノのソナターーー弦楽四重奏などであったがーーーこうした曲が、どれもこれも、それぞれ趣を異にしているので、別の源泉から流れ出してくるのではないかと思われるくらいだった。またとうとうたる流れが、流れ流れて滝となって落ちるように、どの曲も散々流れた末に、彼の中に呑み尽くされるのではないかというような気もした。そうして、弓形に流れ落ちる滝の上には、のびやかな虹がかかり、岸辺には蝶々が舞い、鶯の声さえきこえた。

 今後、彼の魔法がますます深く徹底して、合唱やオーケストラの中にある量の力を駆使するようになった暁には、精神の世界の神秘の、なお一層ふしぎな光景をみせてもらえるようになるだろう。願わくば、最高の守護神(ゲニウス)が彼をそこまで強化するように。彼の中にはもう一人の、謙虚という守護神がいるが、これをみても、そうした将来に備えている天の配慮のほどが偲ばれる。彼の同時代人として、私たちは世界への門出に当って彼に敬礼する。世界にでるからには、手傷を負うことも、もとより覚悟しなければならないが、月桂樹や誉れの椰子の樹もまちうけていることだろう。私たちは彼を逞しい闘争者として歓迎する。

 どんな時代にも、親しい精神の間には密やかな結盟がある。到るところ、喜びと祝福を拡げつつ、芸術の真理の光をいよいよ明かならしめるために、この結盟の盟友は、ますます提携を固くせよ。

 

ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

 

重いまつげの下に、あふれる涙が待ち受けていようとも、断固たる勇気をふるって最初の努力をかたむけて、反抗し、打ち破れ。

汝の地上の遍歴の小道は、あるいは高く、あるいは低く、またどれが正しい道かほとんど見分けもつかぬ。そして汝の歩んだ足跡はたしかにいつも坦々としたものではなかろうが、しかし徳は汝をまっすぐ 絶えざる前進に、汝を駆るであろう。

 

 

おまえは、もう自分のための人間ではありえない。ただ、他人のための人間でしかありえない。おまえの幸福はおまえ自身の裡と、おまえの芸術のほかにはない。ーああ、神よ!おのれに打ち克つ力をわたしに与えたまえ!わたしを人生にしっかり結びつけなければならぬものは、もう何もない。このようにAとの関係はすっかりおしまいになった。

 

 

 

 

生命といわれるすべては至高なる者の犠牲にささげられ、芸術の聖なるものとされよ!なにかに助けをかりても、われに生命を与えよ。生命に「真の自己を」見出すかぎりは。

 

 

 

人間の性質の弱さは、自然から与えられたものであって、支配者たる理性はその強さによって弱点を導き、緩和させるようにしなければならぬ。

 

 

 

 

あらゆる激情を抑制して、事の成否を顧みず、人生のあらゆる事柄を精力的に遂行する人は幸せである。問題は行為の動機であって、その結果ではない。報酬が行為の動機であり、それを目当とするような人になるな。お前の人生を無為にすごすな。おまえの義務を果たすために精励せよ。結果と終局が善いだろうか、悪いだろうかと考慮することをやめよ。このようなものに動じないのは精神生活が旺盛であることを示す。そうなれば、叡智のなかに憩いの場所が求められ、貧困と不幸は単に事柄の結果であるにすぎない。まことの賢者はこの世の善悪にとらわれない。だからおまえの理性をそのように働かせるよう努めよ。このように理性を働かせることは人生における貴重な一つの技術だ。

 

指揮者 コロンヌの言葉


「けっして、魂をけちけちしてはならぬ」

 

 

「きみがどこにいても、大都会であろうが小さい街だろうが、とにかくどんな町で演奏する場合でも、つねに全力を尽くすことだね。唯一の高貴な態度を、自分自身を与え切ることだよ。プログラムは、きみの名人芸をしめすためじゃなく、何よりもまず、きみの精神と心情の質をしめせるように選ぶんだね。たいていのヴァイオリニストは、金のことばかり気にしているが、金が入るかどうかなどということは気にしちゃだめだ。芸術家の歩みというやつは、クレッシェンドで進まなきゃならぬ。いいかね、いつかきみは、世間に知られるようになるだろうが、名声というやつはかんたんに手に入るが、保持しつづけるのことはずっとむずかしいんだよ。」


ーーージャック・ティボー「音楽は語る」より

 


ジャック・ティボー

 

音階を結んだり解いたり・・・

 

ーーージャック・ティボー「音楽は語る」より


フリッツ・クライスラー

音楽家の本分は、絶えず抜け目なく学ぶことにあります。人に学ばれるべき点をもたない人間はひとりとしていません。一度ならず、私は貧しい辻音楽師の近くに立って彼らから何ごとかを学んできました。たしかに彼らの音や技巧は上等なものとはいえませんが、しかしその素朴な抑揚や強調から、それまで知らなかった何かを教えられたものです。
私の場合、音楽芸術とは個性をもっとも直接的に表現することであるという確信に、すべては帰着します。そうである以上、音楽性を完璧なものにするひとつの道は、自分自身を征服し、自分の卑小さを取り除き、自分の納得のゆくような生き方をすることです。もっともよく生きられた“芸術家の人生”とは、戯れやパーティーや浮かれ騒ぐこととは無縁のものです! それは絶えざる価値の追求であり、自らの欲する人物となるべく努力しつづけることなのです。たしかに、だれも自分の理想に到達したことはありませんが、努力は、けっして失われることのない何かを精神にもたらすものです。
 ヘンリーの言葉を借りれば、真の芸術家とは、“おのれの魂の統率者(キャプテン)” なのです。そして、そも演奏から生粋に人間的な資質が輝き出るとき、芸術家は他人を納得させるのです。音や技巧や流暢さはけっしてそれ自身、最終目的ではありません。それらは、芸術家がけっして言葉には尽くしえない思想、感情、抱負を表現する手段にすぎないのです。







私にとって、音楽は生きることの哲学そのものです。音楽を通して私が語りかけるのは、けっして言葉には表せない、私の内面の最も深いところにある、あの部分なのです。





つまるところ、ヴァイオリンの音をつくりだすのは演奏者であって、ヴァイオリンではない。メロディーは弦から生まれるというよりも心から生まれるといったほうがよい。



私は神秘主義者と呼ばれてしかるべき人間です。私は迷信家ではありませんが、芸術家というものはすべて神秘主義者です。神秘主義者であらずして、どうして真の音楽家でありえましょう。・・・





“愛に満ちた心なくしては何びとも大事をなしえない”



いつの演奏が最上だったなどと確信をもっていえる芸術家はいるでしょうか?自分ではまずい出来だったと思った演奏をほめられたり、弾きおえたときに自分に向かって『老いたる仲間よ、きょうは良いところまで行ったなぁ』と語りかけるような出来ばえであったにもかかわらず、聴衆や新聞から手ひどい無関心あるいは留保を示されたりすると、私はいつも驚きます。もちろん納得のいく演奏ができれば、それはそれで幸福なのです。われわれは演奏し、理想を求めます。なかなか思いどおりにゆくものではありませんし、自分の下した判断は必ずしも信用のおけるものでもありません。きょう何やら真理を見つけたと思っても、あすは幻滅の悲哀を味わいます。しかし探求こそ、われわれを導き、支え、鼓舞するものなのです。とはいえ、一芸術に関する一時代の真理が、次の時代にも真理でありつづけるでしょうか?ときおり私はそういう疑問を抱き、慄然とします。



真の昇華は演奏することのなかにあるんだ。真の芸術家は自分ひとりのために音楽を創造するんであって、それが聴き手に美的快感を与えるというのは付随的な事柄にすぎないんだ。




              ーーーーフリッツ クライスラー   中村稔 訳








ディミトリー・ショスタコーヴィチ





書かずにいられるような音楽を書いてはいけない。


 ---わが父ショスタコーヴィチ より