X

そろそろコンクールや早い人だと受験シーズンを迎えます。
生徒さんを送り出すのに「がんばってね、、」って、結局それだけしか言えないなー、と毎回の同じセリフに苦笑してます。
あと、先生に出来ることといえば、弾くのに精一杯で自分を客観的に聴く余裕がない彼らに、
もしもし、こちらにはこうやって聞こえてんでー、と白雪姫の真実の鏡の役目というか、
本当は知りたくはないであろう自分の現実の状態を突きつける、っていう。
あはは
イヤーな仕事ですけれども。
その誤差に気付くのが一番の上達への近道だと信じるので。
毎度毎度、もしもし?聞こえてますか?とリストラ最後通牒の肩叩き、みたいな役目。
耐えきれない、堪えきれないひともいます。

自分に甘い、っていう人々は論外で。


自信がないんだ、と話してくれた女の子に
いや、どんなに傍目から見て才能に溢れた、素晴らしい音楽家であっても、常にその恐さと闘っているひとも多いんだよ、と伝えても、
いやいや、自分は他人よりもずっとずっと自信がないんだ、と話す彼女の細い肩が印象的で、
そこからしばらく考えていることがあります。




自分の欲しいもの。
それは自信であったり、美貌であったり。才能や権力だったり、具体的に愛やお金とか恋人とか。仕事に車に子どもに、ペットに、、とか際限がないもの。
多くの人は、その欲しいものを、それを持っていない、という不足分のマイナスをかけて日々暮らしているのではないかと思う。

算数から、数学というものにステップアップする時に、
何かわからないものを、Xと仮定して、、と習うけれども
多くの場合、人は勝手に、自分の手に入れていない何か、Xに、
でも、それ、持ってないんだ!というマイナスのコンプレックスを掛けてしまっているのかもしれない。

すると、ますます自分の理想から遠ざかるという人生の式が出来上がるのではないだろうか。

そうじゃなくて、
もうXというそれぞれの何物か、を手に入れているものとして、過ごしてみるのはどうだろう。
その方が、きっと調子良くなるのでは?


でも、これは現実逃避なのか?
あはは 
何事もバランスとセンス。←レッスンでいつもそこに落ち着く言葉。
想像過多も行き過ぎると、真実の鏡にも曇りが?!

事実を語るな。
真実を語れ、というのはヨガナンダ師の言葉ですが、
なかなか。なかなかに難しい。