調子が良くなると、フォーム改善、というよりも、最近はもっぱら顎当てのカスタマイズが止まらない。
ちょっとちゃうねんな、、、と紙やすりで少しずつ少しずつ。
慎ちゃんは80歳過ぎても、まだフォーム改善してそう、、と言われたことがある。
生きてたらそうかもしれない。
なかなか終わりに近づきそうもない改善を前に
自分の望みとは一体なんだろうか、と改めて考えてみる。
それは、自分の意のままに。誰もが信じられないような究極に美しい世界、時間を創ること、それを完成させることに尽きる。
誰も信じられないような、と書いたけれども、
美の基準は誰もが同じではないのだから、細かくは他人の、個人評価は関係ない。
しかし、自分よがり、個人的趣向に偏った美でもなく。
本当に、真実に美しいもの。
であれば、人間に共通する感覚に多く訴えるものがあるのでは無いだろうか。という大きな設問に対する正誤を知りたい。
そうなれば、私がただ想ってる、だけじゃなくて
私の想うvisionが、聴き手にそのまま転写されることが可能なんじゃないか、との答えを薄々期待してます。
わたしの普段聴く音源は、20世紀初めの頃の旧いものがほとんどで、
好きな演奏家もその頃に集中している。
だから、勝手に我が師とも思っているエドウィン・フィッシャー先生が、著作の中で
『人間が歌うときには、全身がひとつの鳴りひびく柱だと、歌手は言ってます。フレッシュは彼のヴァイオリン教室でこう言いました。「私はラバーのヒールを望まない。ヴァイオリンの響きは床にまで伝わって、遠くまで届くのでなければならない。」少なくとも身体が共振しなければならない』と、響きについて語っているのを見付けて嬉しくなった。
数年前頃から、生徒さんたちに思うところがあって
それは一人や二人、の問題という感じではなく、ジェネレーションギャップ?と疑っている。
YouTube で音源を求める世代の、音楽の響きのイメージが、シャーシャー薄っぺらいのだ。
最近の若い者は、、、
と不満に思うのは、
徒然草の中でも。古代ギリシア時代から人間に共通する言い方だけれども。
あはは
楽器を弾くのに体感とはかけ離れた所で音を出している。
音程だけでは音楽には成らないのに。
でも、コンピュータの普及、発展が進み、与えられるイメージや情報を共通するスピードが豊かに、速くなった一方で、
人間の体感と、私たちの生活がますます解離してきたというか、
その分裂はこの先、もっと進むのではないでしょうか。
どうなっちゃうんだろう。
まっ、それなりに。なんとかなるものかもしれませんが。
音楽が、心や感性の位置づけが大きければ大きいほど、個人的には音楽に感性以外から選択する優先事項は結局あまり重要では無いように思える。
(注: 感性で弾くとは感じたまま、勝手に弾く、という意味ではあらず。言うなれば、それを選択する理由が技術的に、とか理論的に正解だから、っていうのではなくて、美しいから、好ましいから、という感覚のみで奏でる、といったところか。)
人類が数千年後に、どんなものを聴いているのか、興味あります。
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