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人はただ独りでいる時よりも、他者という自分以外の存在を得てこそ、反発や共感などの刺激を覚えながら思わぬ現実の自分の姿や心情を見つけたりする機会が多いのではないだろうか。

 

私にとっては、それは特に生徒さんであったり、観客であったり。時には家族や仲間であったりするわけだけれど。

 

『無難に、という言葉は大嫌い。そのような選択はあり得ない。私の辞書にはない!』とレッスン中にパッと口から出て、そうだよな、その通り!と自分に激しく同意。

自分は、自分で思っていた以上に、激しい人間らしい、と最近ようやく自覚し始めています。

 

 

自分の身体をどのように統御するか、という方法について、今日生徒さんに説明していた時に、ああ、なるほど、そうかもしれない、と閃いたことがあります。

 

汝の敵を愛せ、汝の隣人を愛せ、とキリスト教の教義にはあるし、合気道の開祖、植芝盛平翁も同じような極意を語っているけれども、

それは苦い薬や道徳のように、そうしなければ完成した人間にはなれませんよ、という意味だけではないのかもしれない。

他人を自分のように愛することによって生み出される、利己も利他もない場であればあるほど、自分の能力やビジョンが、外に向かって最大限に発揮され、伝わるからなのではないだろうか。実は自己実現のもっとも近道で強力なヒントなのかも。

 

 

身体の統御が上達してくると、どうやって筋肉を使うか、というより、いかに筋肉を緊張させないか、というところに落ち着く。音は空気の振動で伝わるし、振動をより効果的に伝えるには筋肉を固めず、リラックスした状態であることは想像容易い。

骨格にかけるのは自分の身体の重さ、または重心の移動を利用し、より深部の体幹というか、鍛えられたインナーマッスルだけが芯のように残っていく感じだけれども(未だ道半ばですが、、、)

筋肉や内臓が緊張しないで息づいている部分が多ければ多いほど、より想念や心象などが伝わるパーセンテージは大きくなると思う。

だからこそ、聴き手がリラックスしているかどうかも影響はあるだろう。

人間としての共通項が深いところで共鳴すればするほど、心が揺り動かされる可能性が増えるのではないか。

故に、「汝の隣人を愛せ」なのである。

 

 

あはは

思い至ったのは嬉しいけれども! だ。

「無難に」=難しく無い、なんてことは私の辞書には無いんだった。