Love

 

最近このブログをあまり更新していない。
更新しないのは何も起きていないからではなくて、書けないほどに思うところがあり過ぎ、公にするにはあまり向いていない心情、話題であるな、とひけているのである。
新しく出逢う人もいれば、いつの間にか遠くに過ぎ去っていく人もいる。
人生は旅のように喩えられるから、それも必然。同じ場所に留まるほど不自然なことも無いだろう。
色んな人と関わりを持つ中で最近思うのは、自分の人生は自分でしか救えない、決められないということ。
両親や兄弟、友人など、自分にとって近い人たちの人生とも深く影響を与え合っているのも事実だけれども、
究極のところ、神に愛されている自分自身を信じられる、守りきれる、という自信を持ち、覚悟が決まっているか、というところになると思う。
いきなり「神」という言葉が出てきて吃驚されたり、拒否反応を覚える方もいらっしゃるだろうけれども、追々説明するのでまずはそのまま呑み込んで頂きたい。
それに「神」について語るのはタブーではないと思う。
わたしがここで「神」というのは特定の宗教の神さまではなくて、(というか、別に何教の神さまでも構わないのだけれども) 宇宙や自然、世界を生み出したような根源的な善意のエネルギーのことをそう呼んでいる。
自分の「心」は目には見えないものだけれども、同じく自分以外の世界の全てにそういう巨きなエネルギーの流れが至るところに存在することが想えるか、感じられるか。
 
地球が太陽の周りをくるくる廻っていて、その地球の周りを月がくるくる廻っている不思議からも、それは簡単に想像できそうなものだ。
目には見えない力の存在に気づかなければ、
強い自分自身(と思い込む)だけでもやはり不十分なのだ。
自分と宇宙、世界との調和が成り立たない。
それぞれ事情はあれど、
本当の自分自身を、自分では見つめられなくなった人がいる。
悪意はなくとも、自分以外の世界が上手く想像出来ず、調和することが不可能な人もいる。
また、見えない世界への感覚は過敏にある人であればこそ、
しっかりとした「大いなる存在」を信じることが出来なければ、やはりその混沌とした世界から自分を這い上がらせることは出来ない。
その巨きな存在は「神」と呼んでいいものだけれど、
その概念は他人が口出しできるようなものではない。
他人に薦められて身につくような宇宙観、「神」観では不十分なのだ。
自分の「神」は自分自身で出逢わなければばならないのだと思う。
 
 
またこの「神」というのが、色々ムズカシイ。
思い切って言えば、怪しい神さまと呼ばれる存在もある。
それは新興宗教だから云々、老舗の三大宗教の一派だから云々とか、そういう問題でもない。
この数年、哲学や宗教など、目には見えないものの世界についての本を読むことが多いけれども、わたしが何の答えを探しているかというと、ある人が現生利益の力を授ける存在を神と呼び、そこに誘われることに、どうして私は直観的に「それは違う」と強く否定出来るのか。
新興宗教だから、とか料金が必要だから、とか理由はそこではない。その答えを明確に差し出したくて色んな本を読んでいる。
自分自身に対して。そして自分以外の全ての存在に対して。
誠意を尽くす、誠実に生きること。
(私にとっての)中途半端な神さま観では、そこに歪みが生じるからであると思う。
しかし、このわたしの「答え」も、通じない人には、通じない感覚であるのは想像容易い。
どのような現象であっても、一周廻れば良いところがあり、悪いところがある。
それが共鳴調和しているのが現世であり、それを個人の狭い視野から否定することは自然に反している。
つまりのところ、この世ではどのような存在も、本物の「神」にとっては許された存在であるのだ。
巨きなエネルギーは「神」の愛と呼んでも良いだろう。
「神」に愛されているという事実に気付いた存在は、自らも愛を拡げることで貢献するしかない。