The meaning

自分というものが、他者からそういう風に捉えられていたのか、と率直に知ることは新鮮であり、驚きでもある。

こちらはそんな風に考えたことすらないのに、AさんにはAという印象であったりBさんにはBという印象であったりする。
わたしは大多数の人と比べて、考え方や時間の感じ方や諸々、ペースが異なっている。益々その傾向は増している。指摘されることも多いし、自覚症状もある。これは卑下しているのでもなく、得意がっているわけでもなく。そしてそれを表に出すことのテンポもオリジナル。
仕方ないことだ。
そして、仕方ない、というこの諦めが、ある人にとっては大いにユーモアにもなるだろうし、人をイライラっとさせる原因になっているのもなんとなく分かる。
器用な方ではないのは重々承知しているものの、
この不器用さのせいで、他者が私を笑ったり、見下げたりすることは多くあり、
そしてそのことを逆手に、わたしは此方側からその人たちを冷やかにジャッジしている一面がある。
このあまり動じなさ振り、がエラそうにしてる、と見えたりもするらしい。驚きだけれど。
小さい頃からそうだったけれども、
わたしは他者に期待をしない、というある意味冷酷なものの見方をしている。
じゃあ、生徒さんのレッスンもそうなのか。生徒さんには期待しないのか。聴き手に音楽が伝わると思っていないのか、とか、そういう私の仕事の根本的なところにも深く根差す問題なのだけれど、それは少し異なる。
わたしはベストを尽くすけれども、それを活かすも殺すも生徒さん次第。伝わるも伝わらないのも、なんかもう天任せ、という心持だ。その努力の方向も、突き詰めれば他者のためではない。自分が後悔しないため。超利己主義と呼ばれても、人生とはそのようなものだと思っている。
まあ、この冷たさは、分かる人には分かるだろう。
感じる人は色んなところから感じとっていると思う。
しかし、直せはしない。
(まあ、この先、考えを変える出来事がないとは限らないけれども)
といって、
自分に自信がまるであるわけではない。
これが常に私が闘っているところであり、
もう一つの私のアイデンティティーの柱だ。
結局、自分にしか興味がない、と言われれば、その通りなのだが。
こんな私でも、生きる権利はあるのではないか。
だから、生かされているのだと思う。
不完全な私で関わる周りの人たちには申し訳ないけれども、
わたしはわたしに出来得ることを、エネルギーを還元していくしかないと思っています。